モノクローム

「被害者の男の死因は窒息死です。司法解剖の結果、睡眠薬と覚醒剤反応が検出されました」
矢崎早苗が直属の上司の鬼塚一平に報告した。彼女は警視庁捜査一課の女性刑事である。
鬼塚警部は早苗の８期上で特捜３係で早苗とコンビを組んでいる。
「被害者の名前は麻原悟４３歳で肩書きは消費者金融を営んでいるが、覚醒剤密売、恐喝、婦女暴行の前科が記録されています」
「暴力団のいざこざの恨みで殺されたのだろう」鬼塚は渡された資料を見ながら淡々とした口調で返事をした。
「二人の少女が男とホテルへ入るのを目撃されています。彼女たちを捜索してみると何か分かるかもしれません」
彼女は止めてある車の助手席に鬼塚刑事を乗せるやいなや、乱暴なハンドル裁きで車を急発進させた。

里香は予想外の事件の展開に、半ばパニック状態で電車に乗ると、待ち合わせ場所の新宿駅東口のコンコース広場で沙樹を待っていた
沙樹は１０分遅れてやって来るやいなや落ち込んでいる里香に話しかけた。
「あたし、ニユースで知ってびっくりしちゃった。睡眠薬で死ぬなんてね」
「わたし人を殺しちゃった。沙樹どうしょう・・・わたしと一緒に死んでくれる ?」
「勿論、けど・・里香が悪いんじゃないよ。あたしにすべての原因があるのよ」
「沙樹、自殺志願のオヤジのこと覚えてる ?名刺に電話番号書かれてるから電話してみようか?　どうせ死ぬなら３人の方がいいから・・」
沙樹が黙って頷くのを見て里香は名刺を取り出して電話をかけた。
「なんだ、昨日の君たちか。えっ、俺と一緒に死んでくれるのかい?　一時間後に君たちのいる場所に向かうから・・・」
都内で小さな鉄工場を経営する４７歳の田島真一は１億５千万円の負債を抱えて資金繰りにあくせくしていた。従業員の給与と迫っていた手形決済を乗り切るには３０００万円足りなかった。社長以下８人の規模の鉄工場で受注の８割を大手自動車メーカーに頼っていたが平成不況により受注が極端に減りバブル期の多大な設備投資のしわ寄せが重くのしかかっていた。銀行に融資を打ち切られてからは親類縁者に借金したり高利の闇金融からも借金を重ね負債額が膨れ上がり、最近では１０万円単位の資金繰りにも困るようになっていた。
田島は会社を受取人とする１億円の生命保険に加入していたこともあって、借金を返済するには自殺する以外に方法がないと強く考えていた。それで、昨日、里香たちに自分を殺してくれと相談したのであった。田島は妻あての遺書を残して約束の場所に車で向かった。
里香は電話を切ると沙樹と一緒に歌舞伎町へ足を向けて歩いていた。里香たちの視線が喧嘩をしているグループへ注がれた。
１７～１８歳位の一人のジャージ姿の若者に暴走族風の５人がいいがかりをつけていた。その若者は多勢を気にすることなく拳を上げるグループのリーダー格の男の顔面に強烈なパンチを食らわせた。リーダー格の男の前歯が折れ口から出血しているのを見て残りの４人は後ずさりした。「覚えてろ! 俺達の後ろには暴力団がいるんだからな・・・・」と捨てせりふを吐くと人群の中に消えた。
突然、群衆の中から恰幅のいい中年の男が若者の前に近寄り話し始めた。
「うちの組の可愛い舎弟相手にいい腕しているぜ。うちの組に来ないか?小遣いには不自由させないぜ。ハヤセと言えばすぐわかる」
若者は、一瞥してその場を後にした。里香は、その若者の後をつけて歩くと思い切って話しかけた。
「チンピラを相手にするなんて、あんたって強いんだね。そこで、ちょっとお願いがあるの・・」
若者は里香たちに振り返ると照れながら頭を掻きはじめた。
「俺、徹（とおる）というんだ。今日はむちゃくちゃしていたからスカットしたぜ。頼み事ってなんだい?」
「私たち人を殺しちゃったの、それで死のうと考えていたの。でも死に方が分からなくて・・・お金あげるから殺してくれますか?」
「正気かよ! 人目をはばかる話らしいからコーヒーでも飲みながら話しを聞こうじゃないか」
徹は里香たちを徹の行きつけのカフェバーに案内した。店内には髪をぎんぎんに染めた３人のコギャルたちが徹の連れ合い達に目を配っていた。「徹 !　あたい達を捨てて、この子たちに乗り換えたのかい?」　コギャルのリーダーの摩耶が上目遣いで彼を見つめて、尖った口調で訊いた。「うるせえなぁ! そんなんじゃねえよ」　うんざりした表情で彼は応えた。
「わたし達、待ち合わせてる人がいますから・・・」　里香は彼にそう伝えると席をたった。
「話を聞かせてもらったからには、心配だから俺もついて行くよ。」　徹は摩耶たちの罵声を気にもとめず店を出て行った。
里香たちが待ち合わせ場所に着くと、田島が車の運転席の窓を開け里香たちに声をかけた。
田島は自分の車に里香たち３人を乗せるとレインボーブリッジ目指して走り出した。

「矢崎君、彼女たちの手がかりつかめたか?」　鬼塚警部は紫煙を吐きながら訊いた。
「いいえ、まだです」
鬼塚刑事は真面目な刑事とはとても思えないのだが、仕事は人の３倍以上を平気でこなす。それでいて全く嫌みさはない。不思議な人物である。その経歴も不可解で、警察官としての職歴に妙な感じがある。別におかしいと言う訳ではない。ただ……あまりにも順調に整いすぎている。大卒で交番勤務、警察大学校、所轄署勤務、機動捜査隊勤務……安手のミステリ作家が造形するような典型的な刑事の経歴だ。
早苗はミステリーものを愛読してはいるが、いつもその人物造詣には幻滅する。実際の刑事の経歴は……特に警視庁捜査１課に配属されるような刑事はそれぞれ一人一人物語が書けるほどの経験をしている。大卒で順調にキャリアを積んできたとすれば警察官僚としてもっと出世しているだろうし、何かでつまづいたとしても自分でフォローできなければ１課には上がってこれない。失敗や危機を逆にチャンスに変える『強さ』をスーツに隠した人間だけが集まるのが１課なのだ。早苗は鬼塚の乱雑きわまりない机を片づけ始めているとデスクの電話が鳴りだした。
「はい、こちら特捜３係です」
「こちら新宿署ですが、そちらで捜索中の少女の情報についてある男からたれ込みがありました。中年男の運転する車で首都高湾岸線に向かって走行中です」
「警部、チャンス到来です。早速、出動しましょう」早苗は張り切って鬼塚刑事をせかした。
「どうも、腑に落ちないなぁ!新宿署にたれ込みした男は何者なんだ?」鬼塚は腕組みしながら早苗に自分の勘をもらした。
「以前だったらまさか、と思うところだが、最近はいろいろな組織がある。この時代、もう誰も信用してはならない」
「そうですね」　早苗は鬼塚の真剣な顔を見つめた。瞳が今は鋭く輝き、痩身がより引き締まって動き出す。様々な難事件、特に宗教団体がらみの難事件に取り組んで成果を上げ、今では警視庁捜査１課内に特殊犯捜査３係（特捜３係）という独立行動できる捜査班を作ってしまった。早苗はそんな彼に惹かれ、希望してここの配置に就いてからそろそろ２ヶ月になる。しかし、特捜３係とは言っても２人だけ。特捜３係の存在自体が鬼塚の道楽と揶揄されることもある。たしかに庁内で熱帯魚を飼ったり観葉植物を育てたりと、道楽と言われても仕方がないところも多分にある。しかし、誰も鬼塚を止められないでいる。警視庁地下のガレージ出口から、早苗は覆面パトカーで街に飛び出した。隣に鬼塚が座っている。早苗は運転しながら、鬼塚のギャグを聞きながら首都高に合流した。愛嬌あるギャグ、これもまた鬼塚の魅力のひとつでもある。
早苗はこうして鬼塚の足代わりに使われてしまっているのだが、それでも良いと思っている。鬼塚はその風貌以上に、なんとも掴み所のない魅力があるのだ。　　　　　「通報者からのたれ込みで車の特徴は分かっているんだろう ?」
「はい、白のクラウンで、ナンバーは＊＊＊＊です」
「どうも、お膳立てがよすぎるなぁ!」鬼塚は頬杖をついて苦笑した。

警視庁で鬼塚刑事らの事情聴取を受けていた里香は、今までの憂鬱な気分が吹っ飛んで晴れ晴れした表情に戻っていた。
「被害者の男の死因は、睡眠薬でなく何者かに顔を塞がれたことによる窒息死なんだ。」
「ご足労かけてすまなかったね。もう、帰ってもいいよ」
「すいません、アタシ服を万引きしました。刑務所に入れて下さい」
沙樹は、涙を浮かべて鬼塚に自白すると鬼塚は彼女に微笑みながら優しく肩を叩いた。
「店に行って正直に話しお金を支払ってきなさい。意外と高い代償を払い懲りたんじゃないかい」
「はい、そうします。いろいろありがとうございました」
沙樹は里香同様に晴れ晴れとした元の元気な表情に戻っていたが、ただ一人、田島だけが暗い表情でソファに座り込んでいた。
「あなたの置かれた境遇には、同情するが、警察は民事不介入でね。死ぬほどの勇気があるなら弁護士と相談して自己破産とか会社更生法の申請を裁判所にしてみたらどうかな。闇金融の高利な利子は利息制限法に違反し無効なんだし貸金業登録免許がないかもしれないしね、業者にも弱みがあると思うよ」
「刑事さん、ご助言ありがとうございました。死んだつもりで、もう一度やり直してみます」
気持ちの整理がついたのか田島は、それまでの憂鬱な表情から、にこやかな顔つきで警視庁玄関前で里香と沙樹に別れを告げた。
「君たちには、いろいろと迷惑かけてすまなかったね。死ぬ勇気があれば、借金なんか、なんとかなるさ。じゃ、君たちも元気でね」
「おじさんも頑張って生きて行ってね」

「田島さん、うまく立ち直れるといいですね」　早苗は彼の置かれた境遇に同情して世の中の不条理に憤っていた。
「未曾有の不況下で、彼のような零細業者や社会の底辺に暮らす人々が犠牲を強いられるんだ。それというのも為政者や企業のトップが無能だからさ。」　「数年前のバブル全盛期には、日本がこんな風になるとは誰も予想もしなかったでしょうね」
「そもそも、狭い国土の日本は土地が値上がりする土地神話があり土地を担保にバブル時代には銀行はノンバンクを介して資金を贅沢に融資続けた結果、地上げで東京を始め全国の都市の街並みが虫食い状態で、バブルが弾けて銀行は巨額の不良債権を抱え自分たちの失敗を税金で穴埋めしてるんだからね。今でも消費者金融と銀行は持ちつ持たれつという関係さ。今日の事態を予測できなかったばかりか今でも何も出来ない政治家の無能ぶりが結局、多数の善良な国民を苦しめているんだ」
「そう言う政治家を選挙で選んだ国民も同じ穴の狢ね」　早苗は鬼塚の高潮した顔つきを見て微笑した。
「容疑が晴れて安心したせいか彼女たち埠頭で逢った時よりも生き生きして帰りましたね」
「よほど思い詰めていたんだろう」　鬼塚はライターをとり煙草に火を付け始めた。
「殺された麻原ですが、先ほどの彼女たちのように街頭で少女に声をかけ強請っていたようです。被害者の少女たちも弱みから泣き寝入りしていたみたいです。そればかりか少女たちに覚醒剤を注射して薬漬けにして風俗営業店に売り飛ばしていたようです」
「よく調べてくれた。ところで、早苗くん。警察に密告し俺達をあの埠頭まで行かせた人物をあらってみてくれないか?」
「彼女たちに罪をなすりつけて気弱な男の車で海に飛び込んでしまうのを俺達に目撃させたかったのかもしれない」
「卑怯な悪党ですね・・・何とか犯人を捕まえなければ・・・」　早苗はいきりたっていた。

「沙樹、あたしたちをこんな目に遭わせた犯人を一緒に捕まえようよ。あたし無性に腹が立つの」
「さっきの刑事さんたちも一生懸命捜索してるんじゃないの?」
「そうだけど、あたしたちは、あたしたちで見つけてみようよ」
「里香、アタイたち、なんか私立探偵になった気分ね」
「ところで、徹くんどこにいるのかしら。あの埠頭で車から飛び降りて出で行ったきりだもん」
「里香は、よほど彼が気になっているみたいだね・・・さては彼のこと・・・・」
「そんなんじゃないってば・・・・」
「じゃ、新宿に行ってみようか。ひょっとして彼に逢えるかもしれないしね」
警視庁を出た彼女たちは、そのまま連れだって新宿に向かった。

「矢崎君、ここで降ろしてくれないか。君は歌舞伎町で蛇頭の方を捜索してくれ」
そう言い残し車から降りると、鬼塚は西新宿にある大物組長のビルに入って行った。
「会長に会わせてくれ。鬼塚が来たと言えば分かるはずだ」
訝しげな目つきで見つめる組員たちを鬼塚の睨みを効かすような鋭い眼光が威圧感をあたえていた。
「これは鬼塚さん、お久しぶりですな。あなたにはいつも戦々恐々としていますよ。して、わざわざのお越しとは?」
「この写真の男がヤク（覚醒剤）のトラブルで殺されてね、会長の人脈の広さで手がかりが掴めるんじゃないかと・・確か会長とその男とは同業の貸金業仲間で顔なじみのはずだじゃなかったのかね」
「この時節、昔と違って危ない橋は渡っていないんですよ。そちらの筋は今じゃ蛇頭連中が仕切っているようで」
「今では、この組は気質の金融ブローカーって訳か?　羽振りが良いところを見ると、さぞ、沢山の会社泣かせ手に入れて来たんだろうなぁ!
うちから地検に捜査権が移ると会長も色々と面倒なことに・・・」
「鬼塚さんの口の達者なのには昔から変わらずに棘がありますな。昔お世話になった鬼塚さんの頼みだから協力させてもらいますよ」
「それじゃ、いい返事待ってるぜ」　鬼塚は威風堂々としてエレベーターに乗り込んだ。
鬼塚の乗ったエレベーターが１階でドアが開くと、正面玄関に横付けされたベンツからハヤセがこちらへ歩いて来るところだった。
「これは、奇遇だなぁ! ハヤセじゃないか?! お前、田舎で親の商売を引き継いでやっているとばかり思っていたぞ」
鬼塚とハヤセは同じ大学の法学部で同期だったが卒業後、鬼塚は警視庁に入り、一方ハヤセは弁護士目指して何度も司法試験に挑戦していたこともあって卒業後は逢うことなく今日に及んでいる。
「鬼塚、お前が警視庁に入っていることは知っていたが、まさか、ここで逢おうとは予想もしなかったぜ」
「ハヤセ、お前ここの組長の顧問弁護士でもしてるのか?」
「まぁ、そんなところだ。それよりお前こそ、何しにここへ来たんだ?」
「ヤクのトラブルで殺された男の犯人の手がかりを会長から聴かせてもらおうと思ってね。どうした、風邪でも引いたか、顔色悪いぞ !」
「いゃ、何でもない・・・ちょっと、最近疲れ気味なもんで・・・・・」
「こんど、ゆっくり飲みながらでも昔のことなど語り合おうじゃないか!」
そう言うと鬼塚は、ビルを後にして早苗のいる歌舞伎町へ向かった。

里香を乗せた車は東北自動車道を一路東京に向けて快走している。
「普通なら徹は高３なんだけれど、学校へ行かないの ?」
「俺のお婆ちゃんは中国残留孤児だったんだ。俺はその３世なんだ。そのことを知ると仲の良かった友達でさえ俺から離れて行ったんだ。」
「それで、学校が嫌になって辞めたなの?」
「俺は日本で生まれ育ったんだけど、そんなことにお構いなしに俺を見る偏見、蔑視を感じ自然と気持ちが荒んで家出したんだ」
「里香には、今まで黙っていたことを謝るよ。事情を知ったからには、きっと君も俺を軽蔑しているだろうな」
「あたしの気持ちは前も今も変わらないわ。だって、そんなことナンセンスだもん。徹を愛しているわ」
「俺を心底理解してくれるのは、里香だけだよ。俺も里香を愛している」
「徹、あたしたちを追いかけて来たあの人たちの狙いはトランクに積んである荷物じゃないの?　あれは何なの?」
「勿論、里香を信頼しているけれど、こればかりは男同士の約束だから、それは言えないよ。わかってくれ」
「そういう訳なら、もう詮索しないわ」
「もう東北道も終点の川口ICだ。これから都内に入るが君の家まで送っていくよ。とんだドライブ旅行だったよな」
「あたしは楽しかったわ。だって、徹の愛を確かめられたんだもん。送ってくれてありがとう。こんどいつ逢えるの?」
「連絡するよ。今まで通り新宿のどこかでぶらりと逢えるさ」
里香を自宅まで送り届けると徹はハヤセに携帯電話をかけながら立ち去った。
「ただいま ! 里香どこへ行っていたの ?昨日、沙樹ちゃんから電話があったわよ」
「ちょっと、別の友達のとこへ行っていたの。沙樹には今から電話するわ。眠いから、先に寝ます・・・」
里香は部屋に入ると今までの疲れから直ぐに深い眠りに入って行った。
「お母さん、おはよう ! 昨日は余り話し出来なくて御免なさい」
「新聞をお父さんの書斎に届けておくれ」
里香は何気なく新聞を手にすると見開きの記事と写真に凍り付いたように釘付けになった。
「有明埠頭の海中の車から少年の水死体が発見・・・」
「嘘よ !　徹くんが死ぬなんて・・・嘘、嘘・・・・」
里香は憔悴し切った表情で自分の部屋に戻ると泣き崩れてしまった。

里香は、目を真っ赤にしながら沙樹に電話を入れると、彼女と一緒に警視庁の鬼塚刑事を訪問した。
「徹くんは誰かに殺されたに相違ありません。刑事さんお願い犯人を捕まえて !」
里香は涙を浮かべて鬼塚に哀願するように訴えながら、昨日までの経緯を話し始めた。
「早苗くん、被害者の乗っていた車のタイヤ痕などを栃木県警に連絡して「いろは坂」の事故のタイヤ痕と照合してくれ」
「里香さん、しっかりしてね。犯人は必ず捕まえるから。あとは私たち警察を信じて任せてね」
早苗は、里香たちを警視庁玄関まで送ると里香の肩を軽く叩き勇気づけながら笑顔で見送っていた。
「水死体で発見された少年は里香さんの恋人だったみたいですね。昨日まで一緒にいただけに里香さん、かなりショックだと思うわ」
「犯人も、追いつめられかなり焦っているな。彼女の話によると車のトランクに何か積んでいたようだが」
「衣類の入ったバッグの中に覚醒剤３kgがありました」
「早苗くんはその覚醒剤の純度の鑑定と被害者の少年の交友関係をあたってくれないか」
「俺は、気にかかる人物にこれから会いに行ってくる」
鬼塚刑事は、西新宿の組事務所を訪れるや、ハヤセに面会を求めた。
「鬼塚、よく来てくれた。ところで今日は何の用だい?」
「久しぶりに今晩、お前と飲み明かそうと思ってさ・・」
「そういうことなら大歓迎だ。夜とは云わず早速飲みに行こうじゃないか」
「その前に、お前に聴きたいことがあるんだ。お前、俺の目を見続けられるか?お前の苦しんでいる目が俺には分かるんだ」
「鬼塚、お前こそ何云ってるんだ。刑事なら証拠だてた筋道を示せよ」
「ハヤセ、お前も人が変わったな !　学生時代の正義感溢れる心はもはや消え失せたのか」
「それじゃ、今晩楽しみにしているよ ! 俺は、会長と話しがあるからこれで失礼する・・・・」
鬼塚はハヤセの部屋を出ると、そのまま会長のいる部屋に向かった。
「警視庁一の辣腕刑事の鬼塚さんにまたお会い出来て光栄です」
「会長も相変わらずお世辞が上手いな」
「せっかくお出でいただいたのに例の件、鬼塚さんのお耳に入れる情報はまだないのですよ」
「某大手銀行から殺された麻原を通して多額のお金が会長の元へ流れていたそうじゃないか。それに歌舞伎町を根城にする蛇頭連中と麻原を通じて会長とは誼があったそうじゃないか。さぞ会長の元にはお金が唸るように入っていたんだろうよ」
「鬼塚さん、失礼ですが、そう言うからにはちゃんとした証拠と裁判所の令状をお持ちなんでしょうな?　確証も無く推量で言われては困りますよ」
「そんなもの、あんたに見せる必要なんかねえよ。蛇頭連中も麻原に預けていた金の成る木を誰かに猫ババされたらしく血眼に捜していたぜ」
「今日のところはおとなしく帰るが、会長も飼い犬に噛まれないよう用心することだな」
そう言って会長を一瞥すると、鬼塚は部屋を出ていった。

「まさか徹くんが死ぬなんて思ってもいなかったよ。里香しっかりしてよ」
「ありがとう ! あんまり落ち込んでばかりいられないよね。彼の分まで精一杯生きると彼に誓ったの」
「でも、そんなに愛されている徹くんは里香に巡り会えて幸せだったと思う」
「きっと彼は得体の知れない組織に殺されたんだわ。彼の無念を想うと犯人が憎い!」
「里香、刑事さんたちが犯人をきっと捕まえてくれるよ」
里香は沙樹に慰められながら徹の匂いのする歌舞伎町へと足を向けた。
その頃、鬼塚刑事たちは新宿署の応援を得て歌舞伎町の蛇頭一味のリーダーの逮捕に乗り出していた。
覚醒剤密売で殺された麻原を通して蛇頭組織と暴力団の繋がりの証拠を得た鬼塚はハヤセの逮捕状を裁判所に申請していた。
「水死体で発見された車からハヤセの運転手の指紋が検出されたとのことです。トランクにあった覚醒剤の純度は５０バーセントでした」
「早苗くん、東京地裁にハヤセたちの逮捕申請手続きをとってくれ」
「俺は、新宿署へ蛇頭リーダーの取り調べに行って来る」
「いよいよ、悪の総本山が逮捕出来るわけですね」
「順調に書類が裁判所で受理出来ても、ハヤセらの逮捕執行は明日になりそうだな」
ちょうどその時、麹町署から早苗の車へ警察無線が入った。
「こちら麹町署です。Nホテルの７階でハヤセという男が首吊り自殺し検死官を向かわせました」
「警部、お聴きになりましたか?　ハヤセが自殺しましたよ」
「早苗くん、すまんが俺をそのホテルまで乗せていってくれないか?」
鬼塚は助手席に座ると好きな煙草も吸わずに押し黙って瞑想に耽っていた。
ホテルに到着した鬼塚たちは報道陣を避けるように７階のハヤセが自殺した部屋に向かった。
部屋に着くと既に検死官たちが検死作業にあたっていた。
「窓際の天井に吊ったロープで首を吊った模様です。男の上着から２通の遺書があり１通は家族宛でもう１通は鬼塚警部宛です」
鬼塚は遺書を手にすると封を切って読み始めた。
「鬼塚、お前に会えて嬉しかったよ。死ぬ前にお前とじっくり酒を飲み交わしたかったのが心残りだが。お前がじきに俺を逮捕するのは分かっていたが俺は俺のやり方で己の身を処した。会長の目を盗んで蛇頭連中の覚醒剤を麻原から盗んだのは俺だ。少年に罪を押しつけ車ごと海中へ始末したのも俺だ。お前が会長の所へ行き来するうちに会長も俺を疑いだしたんだ。遅かれ早かれ俺は会長から始末されただろう。俺の事務所の金庫に会長と麻原と銀行の繋がりを示す資料がある。蛇頭との覚醒剤取引明細及び麻原から奪った覚醒剤は添付の地図に在処を書き記した。これが俺の良心を取り戻すための、せめてものお前への償いだ」
鬼塚は読み終わるとハヤセの遺書をポケットにしまい部屋を出てどこかへ消え去った。
翌朝、鬼塚たちは、捜査１課の応援を得て会長の逮捕に向かった。
「逮捕状です。会長を覚醒剤取り締まり法違反ならびに横領、恐喝罪・・で逮捕執行します」
会長は鬼塚の顔を一瞥するや肩をおとして静かに頭を垂れた。
早苗が鬼塚に伝言を入れた。
「警部、麻原を殺した犯人が分かりました。歌舞伎町を住処にする非行少女グループの摩耶という少女です。彼女も最初、里香さん達のように麻原から脅されて暴行され覚醒剤を注射されて心が荒んで非行に走ったようです。彼女にとって麻原は憎い男で復讐していたがっていたようです。あの日たまたま里香さんたちと一緒の麻原を目撃して後をつけて里香さん達がホテルから出て行った隙に寝ている麻原の顔を濡らしたタオルで塞ぎ窒息死させたとのことです」
「早苗くん、いろいろとご苦労でした。でも本当の悪の大物は我々の手が届かないところにいる」
「警部、里香さんたちには、何と言いましょうか?」
「犯人が逮捕されたとだけ言ってくれ」
「はい、分かりました。今晩、事件解決の打ち上げの食事会を先輩の家でさせてくれませんか?」
「先日の料理美味しかったよ。今度はどんな料理が出るか楽しみだ。期待しているよ」
早苗は頬を紅く染めながら嬉しそうな笑顔で応えていた。
鬼塚を乗せた早苗の運転する覆面パトカーは歌舞伎町を通り過ぎようとしていた。
「通りを歩いている二人連れ里香さんと沙樹さんですよ」
「彼女たち、未だ若いんだから未来に向けて羽ばたいてもらいたいな」
「あたし、里香さんたちに犯人逮捕のこと話してきますから、先輩はここで待っていてください」
早苗は車から降りると里香たちの歩いている方向へ駆けて行った。
鬼塚刑事の瞳は、そんな彼女たちを優しく捉えていた。
彼の瞳は刑事畠という色のない水墨画の造形美のような白と黒だけのモノクロームの世界の美学が長い間支配してきた。
今、同じ刑事畠の早苗という新しい光が彼の網膜にハイライトからシャドウに渡るカラーグラデーションの明暗美を形成し彼の心の奥深いところにある情念を呼び覚ましていた。
里香のうち沈んだ心のモノクロームな世界も新しい光のカラーの世界へと少しずつ溶け込んで行った。